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 30度傾いた夕陽が、少女の頬を照らす。凍てつくような山風が、艶やかな黒紫色の髪を靡かせている。雪のような柔肌に空色の瞳、清楚なワンピースにボレロを纏った姿は良家の令嬢とも思しき風情であったが、その髪にも衣装にも、真新しい返り血が飛び散っていた。

 岩肌は荒荒しく削り取られ、その隙間から僅かに生えた草花は彼方此方で炭と化し、中には赤い火を燻らせているものもあった。それはこの地で壮絶な戦いがあった事を匂わせるものであったが、事実、黒銀色の剣を携えた少女は今、この世の理を超えた一つの幻想と対峙しているのだった。

 それは紅い鱗の竜だった。顎門には鋸状の禍々しい牙が不揃いに並び、琥珀色の眼球は何か諦観にも似た眼差しを少女に向けている。広げれば貨物船の帆ほどにもなろう両翼は、今は無惨に刀傷を穿たれ、力無く垂れ下がっていた。

「よもや」

 苦々しげに竜が言葉を発した。それだけでガラスを叩き割るような震動が少女の肌をびりびりと震わせたが、かつて感じさせてきた、ある種の荘厳さは最早無かった。今此処で、自分が神話の存在を手負いの獣に堕としたのだと思うと、何とも言えない高揚感が少女の胸を躍らせた。

「貴様のような人の小娘に、最期を看取られる事になるとは思わなんだ」
「どうせ狩られるなら、筋骨隆々の英雄がよかったかい?」

 悪戯好きの少年のような無邪気な声音でそう言って、少女は竜の鼻先を撫でる。そんな舐めてかかった態度にも、竜は憤る様子を見せなかった。ただ瞼を閉じて、皮肉げに口の端を歪めただけだ。

「獣は、今を生きる為に力を尽くすのみ。……命の遣り取りを誇りとし、剰え悦びを感じる酔狂な生き物など人間だけだ。貴様が赤子であろうと老婆であろうと何も変わらぬ」

 できる事なら、と、竜は言葉を繋ぐ。

「……老いさらばえた身体を静かに横たえて、穏やかに死にたかった。私の可愛い子供達に看取られながら……」
「ふむ、怪物にも家族を想う心はあるんだね」
「戯言を! それは元々、我等のものだ。過ぎた智慧を得た人間が、今にも失いかけているものだ……!」
「……返す言葉も無いな。でもね」

 怒りを滲ませて声を荒げる竜に対し、少女の返答は穏やかだった。

「僕はこれでも性善説信奉者なんだ。皆を閉じ込める檻を叩き壊せば、誰もが在るべき姿を取り戻せる、そう思っている。だけどその為には、ただの人の身体じゃ時間が足りないんだよ、全くもって……」

 少女は薄い胸に手を当てて、小さく溜息をついた。

「この身体もだいぶガタが来てしまっているしね。程よいサイズで小回りが利くから気に入っていたのに。だから君の力が必要だったんだ」
「……何だと」

 訝しげな声を上げる竜に、少女は目を細めて婉然と微笑む。

「生きても死んでも居ないこの肉体。古より生きる竜の血を浴びせれば少しは生の側に傾けられる。次の適合者を見つけるまでの時間稼ぎにはなるだろう」
「……浅ましい事だ」

 竜は明らかな侮蔑と、憐憫の眼差しをもって少女を見遣る。

「何故そうまでして死を厭う。大地の理に反して引き延ばす生に何の意味がある」
「出た出た、年長者特有の。君が長い時を無聊に持て余したからといって、僕がそうなるとは限らないだろう? それに僕にはやるべき事があるってさっきも言ったじゃないか」
「そうではない」
「……?」

 少女が首を傾げていると、竜は溜息混じりに口を開いた。

「万物は流転する。貴様が言った檻とやらも、時を経て忘れ去られる。貴様がどれだけ巨大な楔を人の子らに穿った所で、それは何れ錆びついて朽ち果てるだろう」

 少女の笑みが初めて消えた。

「……根拠は?」
「『見てきたから』だ」

 遥か昔の事を思い浮かべるように、竜は目を細める。

「私にはかつて翼など無かった。言葉を発する智慧も無かった。人の子らが石の槍を取り始めた頃、私は神として祭り上げられ、その時初めて『そうなった』。それから幾百年が過ぎ、私とは違う、存在しない筈のものが神とされ、それは時を超えて『存在する』ものとなった。私はその神に仇なす悪魔とやらの遣いに堕とされ、果ては星の理すら超えて空を舞う獣となった」
「……」
「……遠い未来に、今の神とやらが忘れ去られたとするならば。人の子らの観る世界は星の歴史すらも書き換えて、その夢、想い諸共、貴様を永劫に亡き者とするだろう」

 口腔から大量の血が溢れ出す。神話に描かれた怪物そのものの姿で、死にゆく竜は醜悪に笑った。

「それが、貴様の最期だ。無貌の魔女ウルティカ……」

 それきり竜は言葉を発しなくなった。琥珀色の瞳を見開いたまま、その巨軀からは一切の生が枯れ果てていた。それを見下ろしたまま、無貌の魔女はしばし呆然と佇んでいたが、やがて静かに唇を開いた。

「……ギリシアの英雄ヘラクレスは、自らが討ち滅ぼしたヒュドラの毒によって命を落としたという」

 不意に魔女が長剣を振り上げる。その切っ先が荒々しく竜の上顎に突き立てられると、鮮やかな紅が吹き上がって魔女の美貌を汚した。

「……それが君の毒か? 名もなき竜よ」

 


 魔女の声音には、今まで露ほども見せなかった苛立ちが滲んでいた。竜の亡骸は黙したまま、生暖かい血を吹き出し続けている。岩肌を吹き下す風が、赤々と濡れた頰を冷たく撫でていく――。

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