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「……ん」

 

 ふと気がつくと、開きっ放しの本の上に突っ伏していた。テーブルの上に置かれたオイルランプの炎が、所在無さげにゆらゆらと揺れている。

 

 どうやら読書の途中で眠ってしまったらしい。……涎が垂れて本が台無しになってしまった事が一度あったから、早く直してしまいたい癖なのだけれど。

 

 視線をあげて部屋の中を見渡すが、私より先に布団に潜り込んでいた筈の兄の姿がない。用を足しにでも行ったのだろうか。だとしたら、私の上着しかコートスタンドに残っていないのは不自然だ。そうなると、他に行ける場所はそう多くない。

 

 別に寂しくなった訳じゃないし、そこまで子供じゃない。ただ、彼が私を置いて何処かに行ってしまったという事実に気分を害して、私は席を立つ。黒のコートを羽織り、部屋の鍵を手に取ると、そのまま部屋を後にした。しんと静まり返った廊下を抜けて、デッキに続く扉を開ける。向こう側から吹き込んで来た冷たい空気に、私は思わず身震いした。

 

 飛行客船が翔ける空の上は、地上よりずっと寒い。もう春も半ばの筈なのに、身を切る風の温度は冬場のそれを思わせた。深夜の空に雲は少なく、冷たく浮かぶ下弦の月と、瞬く無数の星々がその姿を曝け出していた。その眺望に目を奪われていた私だったが、暫くして自分が何の為に此処まで来たか思い出し、デッキ一帯に視線を巡らせる。見慣れたシルエットをその一角に見出すと、私はほっと一息ついた。

 

「ノエル」

 

 生来か細く掠れ気味な私の声を敏感に聞き取って、ノエルは――私の兄は驚いたように振り返った。その口の端には、まだ火のついていない紙巻煙草が咥えられている。

 

「……アルマ」

「目を覚ましたら居なかったから。何処に行ったのかと思った」

「……いや、お前が起きる前に戻るつもりだったんだぜ?」

 

 隣まで駆け寄ると、彼は煙草を一旦唇から離し、バツが悪そうにそう言った。

 

「……わざわざ外まで出なくたって、部屋の中で吸えばいいでしょ。灰皿だって置いてあったのに」

「だからってお前に煙吸わせる訳にもいかないだろ……」

「別に気にしないけど。煙草の匂い、別に嫌いじゃないし」

 

 正確に言うなら、彼の吸っている煙草の匂いは嫌いではない、だろうか。バニラのような甘い香りがするからだ。場末の酒場で薄汚い中年共がふかしている、気管を蝕むような煙草の臭いは心底嫌いだった。

 

「好き嫌いの問題じゃねぇって……。身体に悪い事くらい知ってるだろ?」

「じゃあどうして吸うんだか」

「俺が早死にする分には自己責任って奴だろ。お前まで巻き込みたくないの」

「……」

 

 最もらしい理由をつけているけど、本当にそれだけなのだろうか。

 

 ……喫煙にはリラックス作用があると、昔本で読んだ事がある。何か悩み事がある時。辛い事を少しの間だけでも忘れたい時。もしかしたら、そういう時に彼は紫煙と時を共にするのかもしれない。……そして、その空間に私は必要ないーーいや、それどころか邪魔ですらあるのだ。

 

 そう考えると無性に腹が立って来た。私と居ると心が休まらないとでも言うのだろうか。たかがアルカロイド風情に、十年以上一緒にいた私達の関係を引き裂かれたような気がして――。

 

「……っ」

「あぁッ!? 何すんだよ!」

 

 ――気がついたら、彼の手から毟り取った煙草を、船の外に放り捨てていた。

 

「……口応えしないで」

「口応えってお前……。マジかよ、最後の一本だったのに……」

 

 手摺から少し身を乗り出して、眼下に広がる海を見下ろしながら、彼は哀れっぽい声を出す。胸がスッとしたのはほんの一瞬で、すぐにどす黒い自己嫌悪が頭の中を覆い尽くした。

 

 一人にして欲しいと思う事くらい私にだってある。その為に彼を冷たくあしらった事だってある。それなのに、彼にだけはそれを許さないなんて道理が通らない……。今更そう思った所で、遥か下へと落ちていった彼女が戻ってくるはずもなかった。

 

 ……不意に、暖かなものが私の髪に触れる。ノエルが頭を撫でてくれているのだと気付くまでには、少し時間がかかった。

 

「……悪ィ。一人でほったらかしにされて寂しかったんだよな」

「ち、違……」

 

 勘違いを否定しようとして、言葉に詰まる。卑怯な私は、口を閉ざしたままノエルのコートの裾をぎゅっと掴んだ。

 

「ごめんな。これからはお前の目の届く所で吸うようにすっから」

「……でも」

「でも?」

「……何でもない」

「んだよ、もう」

 

いつだってそうだ。我が儘放題の私を、彼は突き放したりしない。他人と接してる時は短気な癖に、私が何を言っても、何をしても怒らない。そんな彼の甘さに溺れて、私はずっと、このままなのだろうか。だとしたら――。

 

「ほら、部屋戻ろうぜ。あんまり長居したら寒さで死んじまう」

 

 俯いている私の髪をくしゃくしゃと撫でてから、彼は手を差し出してきた。握り返したそれは外気に晒されて、すっかり冷え切ってしまっている。

 

「……冷たい」

「ん? あぁ、結構長い事居たからな。指先とか感覚無くなってら」

「……理解できない。何でそこまでして吸いたがるの」

「へっ、お子様にはわかんねーよ」

「……自分だって子供の癖に」

「あ、言ったなこんにゃろ」

 

 憎まれ口を叩く私の頭を、ノエルは笑いながら小突いてくる。そんないつも通りの遣り取りに内心でホッとしている私を、甘い煙の残り香が嘲笑っているような気がした。

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